白珪尚可磨

日記

こんにちは。一日一服はお茶を飲みたい松下です。

先日、私の先生の喜寿のお茶会に行ってきました。

八幡の松花堂

このコロナ禍の中でのお茶会ということもあり、色々と工夫をして頂いていました。

コロナ禍になってからは、毎年あるお茶会や茶祭りがことごとくなくなり、気付けば、約2年ぶりほどのお茶会でした。

出入り口も一方通行にして、先のお茶席のお客さんとは行き交わないようにしてありました。

お茶室は普段だと12人ほどは入れるかなというような広さでしたが、人流制限ではなく、人数制限をということで、お客さんはたった4人でのお茶席で、こんなにゆったりとしたお茶席は初めてでした。

お菓子も一人一つ縁高の中に、ケースに入ったままの主菓子とお干菓子が配られ、自分でケースから出して食べるようにしたり

水屋から運ぶお抹茶はお盆に乗せて、お客さんにお盆から取ってもらうスタイルにしたりと

このコロナで心細い状況の中、たくさんの配慮と心遣いが感じられ、久々にゆったりとした、とても心落ち着くお茶席でした。

早くこのコロナ禍が過ぎ去りますよう願っていますが、やれることは工夫してやっていかないとなと思いました。

そうそう、今日の題名の「白珪尚可磨」は

はっけい なお みがくべしと読みます。

このお茶会のお軸です。

中国の詩経の中の一節

「白圭のきずは尚磨くべし、斯の(この)言(げん)のきずは為む(おさむ)べからず」

による禅語です。

白珪とは、上が丸くて下が四角い形の白く清らかな玉のことで、完全なる形のものです。

その、完全無欠な玉をまだ尚、磨きなさいという意味があります。

もう磨きようがないものをさらに磨く。その努力が大切だということです。

勿論、普段からもその気持ちは大事なのですが、まさに、喜寿を迎えられた先生が掛けると、よりその言葉の重さが増すように感じられました。

私はまだ、白珪には程遠いから、このお軸はまだまだ掛けられないなと…。

ちなみに、この禅語にはもう一つ意味があります。

白く清らかな玉にキズがついたとしても、磨けばまた元の美しさに戻るが

人の言葉はもし一度言い放ってしまうと、もう2度と取り返すことは出来ない。

という意味です。

本当にそうですよね。

自分が言った言葉よりも、人に言われた言葉を覚えていることはよくあることかもしれません。

何気ない会話の中にその人を傷付けてしまう言葉があるかもしれない。

そんなことを考えてたら、なかなかお話するのは難しいと思います。

だけれども、確実に人を傷つけてしまうような言葉や思いやりのない言葉を使わないということはできるのではないかなと思います。

みんながそんな心持ちでお話すれば、色々なトラブルも少なくなるのではと思います。

私が掛けるなら、こっちの意味合いの方が強くなりそうかな。

でも、このお茶会では、

「白珪尚可磨」まだまだこれからも前進される先生の姿を追いかけながら

自分も尚、磨いていく

そんな気持ちになったお茶会でした。

明日は、五月の会の初釜。

感染予防をしっかりしながら、社中さん達と今年の初釜を楽しめるよう頑張ります。

ではでは、また!

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